……。

お風呂上り。
体は綺麗になったけど、私は憂鬱だった。

「どうした? お前が望む通り、目を隠して風呂に入ってやっただろう」

長い髪をうっとうしそうにタオルで拭きながら、朝生さんが言う。

「そうですけど……!」

やっぱり朝生さんは私より、一枚も二枚も上手だった。
小馬鹿にしたように、うなだれる私を見る“私”。

「お前が色事で私より優位に立とうなど、100年早い」
「だっ、だって、あんな、あんな……っ!」

あんなこととか、そんなこととか、もう、私の想像力の限界を越えていた。

体を洗うだけのつもりだったのに!

もし自分の体に戻れたとしても、今日のことを思い出して、まともに自分の体を見られそうにない。

「ひどいです、朝生さん・・…」
「ふん、お前と風呂に入る限り、何度でもやってやる。……嫌なら、他の方法を考えるんだな」

タオルの間から見える口元が、楽しげに歪んでいた。

体は私でも、やっぱり朝生さんは朝生さんだ……。



あれは、いろいろと恥ずかしかった。
もう、これ以上この世に恥ずかしいものなんかないくらい。

お風呂に入るのに、どうしてあんなに精神をすり減らさないといけないの!?
まあ、裸を見られるよりマシだし、提案した私が悪いんだけど……。

あれが毎日続くのかと思うと、ぐったりしてくる。
そんなこんなで、今は居間で龍さんたちとお茶をしていた。

「しかし、どうしてお前がここにいるんだ? 何かまた変なこと考えてるんじゃねえだろうな」

一緒に席を囲っていると、龍さんに訝しげな目で見られた。

「変な事なんか……など考えてないが……」

言葉と一緒にため息が洩れた。
龍さんは私と朝生さんが入れ替わってからずっとこの調子。
まるで、全ての行動に裏があるみたいに疑ってくる。

「まあ、いいか……」

龍さんはまだ納得いかないといった表情をしながらも、テーブルに置いてあったまんじゅうを掴んで口に運んだ。
途端にヤスさんが大声を上げた。

「あ、若頭、それ俺のなのにー!」
「細かいことは気にするな」
「そんなこと言ったって、俺が最後に食べようと思って大切に取っておいたのに……」

ヤスさんはしょんぼりとして丸くなった。

「あ、じゃあ、これ……をやる」

すっと自分の分のまんじゅうをヤスさんに差し出した。

「え!?」

目を見開いて驚くヤスさん。
その場にいた龍さんやスミスさんや山木さんも驚いていた。

「な、何だ?」
「え、これ、俺にくれるんすか?」
「そうだが……」

困惑した表情を浮かべている。

普段の朝生さんってこんなことしないからかな。

「……ありがとうございます」

ヤスさんがまんじゅうを手にとった。
その裏を確認したり、匂いをかいだりしている。

「毒なんて入ってませんから!」

思わず素の言葉が出てしまった。
朝生さんがどう思われてるかわかったような気がする。

「お前、朝生さんの厚意を無駄にするつもりか」

一瞬、スミスさんのサングラスが光った。

「そ、そうっすよね……」

ヤスさんがごくりと唾を飲み込んだ。
まるで、極刑に処せられ死刑執行台に立たされた囚人のような目をしている。

「別に、無理に食べなく……食わなくてもいい」

止めようとしたけど、その手を制止された。

「いえ、いいんです。この極道社会、親が死ねと言えば子供は死ななければならないんです」

……死ぬって。

スミスさんもなにげにひどい。

「母ちゃん、若頭、虎桜組のみんな! 今までありがとうございましたー!」

そう叫んだ後、ヤスさんはまんじゅうを口に入れた。

「…………」

静寂が部屋全体を支配した。
スミスさんはサングラスを上にずらして目頭を押さえている。

「あれ? 生きてるっす」

……当然です。

大げさに驚くヤスさんに何度目かのため息をついた。

「しかし、朝生。お前、どういった風の吹き回しだ」

ずずずとお茶をすすりながら龍さんが言った。

朝生さんからは余計なことをするなって言われたけど。
やっぱり、ここは頑張ってる朝生さんのためにもイメージ向上を図っておくべきだよね。

「どうって、私はみんなと仲良くしたいだけなんだ……」
「仲良く!? まさか、朝生からそんな言葉を聞く日が来ようとは……。おい、灰谷を呼べ!」
「へい!」
「病気ではない!!」

敬礼して電話口に向かおうとするヤスさんを慌てて止めた。

「あの、本当に仲良くしたいだけなんだ。今まではいろいろひどいことをしてきたが、これからはみんなで一緒にやっていきたい」

真剣に自分の想いを伝えた。

「朝生……」
「「「朝生さん……」」」

みんなが瞳を潤ませている。

これで、元に戻ったときもみんなと仲良く……。

「誰がそれを望んだ?」

聞き覚えのある声が背後から囁くように聞こえてきた。
振り向くと、いつの間にか“私”が立っていた。
不機嫌そうに眉間にしわを寄せている。
そんなことは構わず、龍さんが近づいてきた。

「あ、お嬢。実はですね、朝生が改心して俺たちと仲良くしたいって言ってくれたんですよ!」
「黙ってください」
「!!」

龍さんの動きが笑顔のまま止まった。
すかさずヤスさんがフォローに入る。

「ほら、若頭、あれですよあれ」
「あ、ああ。そうだったな。あの、お嬢……。実は駅前の毎日限定50個のケーキを並んで買ってきたんですよ。後で一緒に食べませんか?」

朝生さんは少しだけ躊躇した様子を見せた。

「いりません」
「そうですか……」

龍さんが項垂れた。

なんだかかわいそうになってくる。

「あ、あとでもらってもいいか?」
「何言ってんだ? 朝生」
「あ、っと……、沙紀が言っている」
「……お嬢が?」
「だよな?」

じっと朝生さんの目を見た。

「まあ、後でならいいです」

それを聞いて龍さんの表情がぱっと明るくなった。

やっぱり、朝生さんって優しい。

「それにしても、こんなところに来るとは何かあったのか?」
「あったから来たに決まっています。今日もしっかりビジネスの勉強をしてもらいます。まさか、忘れてたとか言うんじゃありませんよね?」

すっかり忘れてました。

「すまない」
「謝る時間があれば、早く来てください」
「……ああ」

朝生さんの方が、よっぽど組長らしい気がした。

「……本当に、朝生もお嬢もどうしちまったんだ?」

後ろからは、龍さんたちがこそこそと話す声が聞こえていた。



それから一週間。
私の秘書として補佐役を務めている朝生さんと取引先の商社ビルから出てきた。
はぁっと息を吐いて普通の話し方に戻った。

「今日はもう終わりですよね?」
「いや。あと一社回る予定だ」
「ええっ!? 昨日はこれで終わりって言ってたじゃないですか」

学生のような女の子の発言に驚いている働き盛りの男性会社員の姿は、辺りからすれば異様な光景でしかないだろう。
朝生さんはこほんとひとつ咳払いをした。

「今朝入った。よくあることだ」

確かに、この一週間、スケジュール通りにいった例しがない。

「あの、この服、脱いでもいいですか?」

自分の着ているスーツに目を落とした。

「我慢しろ」
「そんな……。これ、すごく暑いんですけど……」
「私が着ていたときは暑くなどなかった。お前の精神が脆弱なだけだ」

そう言う朝生さんは、びしっと上下お揃いの黒いスーツを着用している。
汗ひとつかいていない。
こうしてみると、私って結構スーツ似合うんだななんてどうでもいい感想が浮かんでしまった。

「よし、頑張りましょう!」

言葉に出して気合いを入れ直した。

「急にやる気になったな」
「くよくよしてたって仕事は終わらないですからね」
「ふ……」

感心したように呟く朝生さん。

「では、どうぞ。会長」

そう言って、朝生さんは待たせてあった後部座席のドアを開いた。
その慣れた仕草は様になっていた。



「やっと終わった……」

屋敷に帰ってきた頃には、とっくに日が落ちて真っ暗になっていた。
屋敷に入ると、龍さんたちが出迎えてくれた。

「お嬢、お帰りなさい」
「…………」
「朝生さん、無視しちゃダメですよ」

龍さんの横を素通りしようとする朝生さんを小声で制した。

「はい」

と朝生さんが発した“私”の声。
それだけ言って階段を上っていった。

「やっぱり、俺のことだいっ嫌いなんですね……」

いつから大嫌いになったの!?
前は反抗期とかって言ってたはずなのに!!

龍さんが悲しそうな顔をして、地面に崩れ落ちた。

「あそうさ……沙紀は、疲れているんだ。別にお前が嫌いなわけじゃない」

すると、龍さんが体育座りをしたまま顔を上げた。
潤んだ瞳に玄関のライトが反射してキラキラしている。

「朝生、お前優しいな。学生時代からいけ好かねえやつだって思ってたけど、俺の勘違いだったんだな。すまない」
「いえ、そんなことはないで……いや、そんなことはいい」
「すまねえな。お前はそんなに懐が深いなんて……お前こそ男の中の男だ」

私は女なんだけどね。

「よし、俺もこうしちゃいられねえ。今日こそお嬢を夕食の席に連れ出してやる」

龍さんは立ち上がって去っていった。
初めの頃、龍さんは私の外見をした朝生さんを見るたびに妙に他人行儀になり、ヤスさんなんてあまりの仕打ちにトラウマになって部屋に引きこもってしまった。
それでもみんな慣れてきたのか、今ではほとんど普段通りになっていた。

違うといえば、龍さんの落ち込み回数が増えたことくらいかな。
朝生さんももう少しみんなに優しくすればいいのに。

「しかし、本当に丸くなりましたね」
「え?」

車を車庫入れしてきたのだろうか、いつの間にか運転手をしていたスミスさんが戻ってきていた。

「まるで、お嬢と朝生さんが入れ替わったみたいですね」
「え!?」

サングラスの下の思考は読み取ることができない。

「物のたとえですよ」
「あ、そうで……そうだよな」
「はい。朝生さんが組員に馴染んでくれているおかげで、組の中がより一層まとまっています。それに……」
「それに?」
「ツンデレなお嬢もなかなか……」
「……え?」

スミスさんは手を後ろに組んだまま、少しだけ口元を緩めた。

「いえ、何でもありません」

すぐに表情を引き締め、会釈をして屋敷に中に入っていった。

このままでいいような悪いような……。

複雑な気持ちだった。



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