コチコチと時計の鳴る音が聞こえてくる。
私は執務室の大きな机に座り、手に持ったペンを弄んでいた。
その隣で、もう一人の“私”が監視している。

「もうそろそろ休憩しませんか?」

今日何度目かの同じ問い。

「まだ早い」

返ってくる答えも同じだった。
机の上には経営学入門とかかれた真新しい問題集。
ページは5ページで止まったまま進んでいない。

「どうして私がこんな勉強をしなくちゃ……」

思わず愚痴が零れた。

「前に説明したはずだが、もう忘れたのか?」

補佐するにも限界があるからっていうのは覚えてるけど……。

「でも、難しすぎて私の頭じゃわからないです」
「何を言う。今のお前は私の頭脳を持っているだろう。それを有効活用しろ。私などお前の頭のせいで物覚えが悪くなった」
「う……。悪かったですね」

どうせ、学校の成績はよくないですよ。

「…………」
「な、何ですか?」

無言で見られると戸惑ってしまう。

「私が帰ってくるまでに7ページまで進めておけ」
「え、どこか行くんですか?」

それ以上は何も言わず、朝生さんは部屋から出て行った。

よし、がんばろう。

ペンを握り直して問題集に集中する。
しばらく、時計の音とペンを動かす音だけが部屋を支配した。




「できたー!」

嬉しさのあまり問題集を両手で持ち上げた。
言われた箇所まで全部の問いが埋まっている。
そこに、聞き慣れた声が降り注いだ。

「その問3は間違っているな」
「朝生さん!? いつの間にいたんですか!?」
「少し前からだ。入ってきたことに気づかないとは、お前もそれなりにやればできるんだな」
「褒めてくれるなんて珍しいですね」
「お前の体だからな。遷ったのかもしれん」

柔らかく笑った。
その手に持ったトレイの上から紅茶の甘い香りが漂ってくる。
朝生さんが私の前にティーポットから注いだ紅茶とケーキを置いてくれた。

「これって……」
「休憩したいと言っていたのはどこのどいつだ?」

自分の前にはコーヒーとケーキを置き、私の隣に座った。

「ありがとうございます」
「ふん、たまたまあったやつを持ってきただけだ」

朝生さんはフォークでケーキを切り分け、それを口に運んだ。

「ふふっ、朝生さんって本当にケーキが好きですね」
「お前がよく食べていたからだろう」
「だったら、私も朝生さんの体だからケーキが好きなのかな」

一口ケーキを食べた。
なぜだか、それは以前より数倍美味しく感じた。

「ねえ、朝生さん」
「何だ?」

朝生さんが持っていたコーヒーカップを受け皿に戻した。

「最近ですけど、私、このままでもいいかなって思うときがあります」
「…………」

朝生さんは黙って聞いてくれている。

「いろいろと大変ですけど、朝生さんと一緒にいられて、楽しくて」
「私は迷惑だ」
「え?」

朝生さんの顔を見た。

「龍たちに近寄られるのも不便なお前の体も」
「そんな……、ひどいです」
「だから、必ず元に戻してやる。お前が嫌だと言ってもな」

その顔は真剣そのものだった。

「朝生さん……」
「それに、お前では力不足だ」
「な!?」

朝生さんが鼻で笑った。

「お前は、指示するよりされる方が向いている」
「……私もそう思います。早く、元に戻りましょうね」
「そうだな」

朝生さんは口元に笑みを浮かべていた。



その翌日も仕事だった。
朝生さんにたたき起こされ、頭も覚醒しないまま部屋から連れ出された。

「今日は商談だと言ったはずだ。寝坊などという単純ミスで信頼を失ったらどうするつもりだったんだ」
「そんなこと言っても、昨日も寝たのが二時くらいでしたし……」

大きな欠伸が出る。

「そんなだらしない姿を私以外の前で見せてみろ。どうなるかわかっているだろうな?」

言われて姿勢を正した。
すると、今度はお腹が鳴った。

「う……。朝食くらいは食べる時間ってありますよね?」
「ないな」
「そんな……」
「食いたければ、早く起きればいいんだ」

説得力のある言葉。
ぐうの音も出ない。

「じゃあ、車の中で食べましょうよ」
「そんなはしたない真似を許すと思うのか?」

思いません。

仕方なく、寝ぼけ眼を擦りながら長い廊下を歩いた。

「えっと、今日は商談の後は、本社に戻って各部門の責任者を集めて新プロジェクトの説明でしたっけ……」

そんなことを昨日聞かされた記憶がある。

「おい」
「あれ、違いました?」
「違う! 前をよく見ろ!」
「……へ?」

右足を踏み出したところには床がなく……。
宙をさまよった足は階段の下に吸い込まれていく。

「ちっ」

後ろから朝生さんに舌打ちが聞こえてきた。
手を掴まれるものの、当然私の体格で朝生さんの体格を支えきれず……。

「きゃあああああっ」

二人揃って階段から落ちた。

「いったぁ〜」

落ちる途中で朝生さんと頭をぶつけてしまったらしく、額がずきずきと痛む。

「お嬢〜」

龍さんが向こうから駆けつけてきた。
ものすごくデジャブを感じる光景。
たしか、この後は龍さんが私の横を通り過ぎて……。
しかし、その手はがっしりと私を支えて抱き起こした。

「大丈夫ですか?」
「え、あの、龍さ……龍。私は朝生だ」
「はい? どう見てもお嬢にしか見えませんけど……」

龍さんが首を傾げた。
そして、すぐに重大なことに気がついたような真剣な顔つきになった。

「まさか、どこかを強くぶつけて……。おい! 誰かいないか!? すぐに灰谷を呼んでくれ!!」
「どうしたんすか、若頭!?」

その大声に反応して、ヤスさんを筆頭にスミスさんや山木さんが血相を変えて走ってきた。

「お嬢の頭がおかしい! 今すぐ灰谷に見せねえと取り返しのつかねえことになるかもしれねえ」

頭がおかしいって失礼な……。

「そりゃ大変だ! すぐに電話してきます!!」

ヤスさんは踵を返してすっ飛んでいった。

「お嬢、すぐに灰谷が来ますからね」

さっきから何かがおかしい。
さっきまでより随分と目線も低くなったように感じる。
まさか……。

「あの、龍さん。私って誰に見えますか?」
「誰って、お嬢はお嬢に決まってますよ」

その顔に嘘はないように見える。

……ん?
少し離れたところから小さなうめき声が……。

「おお、朝生。目が覚めたか」
「朝生さん!?」

龍さんの声に振り向くと、確かに朝生さんが起き上がっていた。

ってことは。

手や足を確認し、自分の顔を触った。
覚えがあるこの感触。

「やった! 戻りましたよ、朝生さん!」
「ああ、どうやらそのようだな。どのような要因によって元に戻れたのかわからないが」

朝生さんは乱れたスーツを整えている。

「何のことですかね?」

と、遠巻きに見守る山木さん。

「さあな」

同じく遠巻きに見守っているスミスさんが言った。
その隣には遅れて駆けつけてきた天音君が立っていた。

「あのままだったらどうしようかと思ったけど、準備してたあれは使わなくて済んだかな」

天音君が呟いた声は、小さすぎて聞き取れなかった。

「おう、お前も大丈夫だったか?」

ぽんっと龍さんが朝生さんの肩に手を置いた。
その手がさっと払われた。

「馴れ馴れしく触らないでくれないか?」
「んだと!? お前、やっぱりあの時の態度は嘘だったんだな!? どうりで優しすぎると思ったんだ! 狙いは何だ!?」
「何のことだ? それより離れてくれないか? 単細胞が遷ってしまっては困る」
「それはこっちの台詞だ。お前みたいな勉強しか能のない楽しみのないやつになりたくねえしな」
「筋肉しか取り柄のない人間がよく言う」

睨み合う両者。
戻った途端に元に戻った龍さんと朝生さん。
仲良くはして欲しいけど、何だか安心してしまう光景。

「あの、お嬢」
「スミスさん。どうしたんですか?」
「今度、みんなでピクニックでもいかがですか?」
「あ、はい。いいですね。楽しみにしてます」

そう言うと、急に黙り込んでしまった。

「スミスさん?」
「俺のスウィートビーナスお嬢はつかの間の幻だったのか……」
「はい?」

よくわからないけど、スミスさんはとても悲しそうにしていた。

「おい、スミス。早く車の準備をしろ。商談に出かける」
「はい」

スミスさんはすぐに姿勢を整えて敷地内の駐車場の方に駆けていった。

「てめえ、朝生! まだ話は終わってねえぞ!!」
「若頭、落ち着いてください。商談に間に合わなかったら俺たちにも響くんですよ?」

山木さんに羽交い締めにされながら龍さんが叫いている。
当然、朝生さんは気にする様子もない。

「これで朝生さんも普通にお仕事ができますね。頑張ってください」
「何を言っている? お前もだ。今日の商談を引き受けたのはお前だろう。責任は持ってもらう」
「えっ?」
「……しばらくお前といたせいか、傍に置いておかないと調子が狂う」
「朝生さん……」

そっぽを向く朝生さん。
その耳までが朱を帯びていた。

「早くしろ」

朝生さんはさっさと玄関に歩いていった。

「やっぱり、朝生さんはそのままがいいです」

体も、性格も、全てが揃って朝生さんだから。

駆け足で先を行く朝生さんの後を追いかけた。
少しだけ朝生さんに近づけた気がする、不思議な10日間だった。




END


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