<沙紀サイド>


どたどたどたというけたたましい音。
下に着いたときには体の節々が痛んでいた。

「いったぁ〜」

戻った!?

すぐに起き上がって確認した。

でも……。

「これで気が済んだか?」

すぐ近くに立っているのは、紛れもなく“私”だった。
私を見下ろして朝生さんが話しかけてくる。

「漫画と現実では違うんだ。何の対策もない今、このままの状態での未来を計画的に考えていった方がいい」

そう言って、朝生さんは自分の部屋に戻っていった。
言い返せる言葉はなく、ただ、その後に続いた。

先ほどは意気軒昂として出てきた部屋で、今は意気消沈している。
一番可能性がある方法を試して失敗した。
その事実が重くのしかかる。

もう、一生このままなのかな……。

そう思うと、余計に気持ちが沈んだ。

「いつまでそうしている気だ」

いつの間にか、机に座って考え事をしていた朝生さんが顔を上げていた。

「でも、これからどうすればいいのか……」
「先ほどまでの意気込みが嘘のようだな」
「だって……」
「別の方法を模索するしかないだろう。当面はこのままで行く。さしあたって、お前には私として桜コンツェルンの仕事をしてもらう」
「ええっ!? そんなの無理ですよ!」

いきなりの発言に驚いた。

「もちろん、お前に務まるなどとは微塵も思っていない。ただ、飾りとしてそこにいればいいんだ」
「う……」

そこまで言わなくても……。

「私は元に戻れるまで、お前の仕事のサポートをする。ただし、最低限の知識は身につけてもらうがな」
「そんなことしたら、私が欠席になっちゃうじゃないですか!」
「お前の学園生活と私の仕事、どちらが大事だと思っているんだ? お前の肩に虎桜組構成員の人生がかかっているんだぞ」

私の肩に龍さんや天音君、ヤスさんたちの人生が……。
それに、朝生さんも……?

「う……急にプレッシャーが……」
「プレッシャーなど感じている暇があれば、少しでもビジネスの基礎を覚えることだな。お前には桜コンツェルンのトップとして堂々とした態度を取ってもらう。わかったな?」
「あ、はい。わかりまし……」
「違う! そんな柔な言い方では取引先になめられてしまうぞ! 『ああ、わかった』だ」
「あ、ああ。わかった」

……変な感じ。
おまけに背筋まで矯正されるし。

「では、次に取引に関する鉄則だ。私が取引先の社員をやるから、きっちりと応対してみせろ」
「わかりま……」

じろりと睨まれて、途中で言葉を飲み込んだ。

「ああ。わかった」

あぶない、あぶない。

「では、始めるぞ。『この間のお見積もりの件なのですが、10億5千万円と出させていただいたと思いますが、再度計算してみましたところ、12億だということが判明しまして。どうにか引き上げていただけませんでしょうか?』」
「はい。いいですよ」

瞬間、脳天に拳骨が振ってきた。

「いたっ! 何するんですか!?」
「馬鹿か、お前は。相手が吹っかけてきているのもわからないのか? そこは『もうサインはしたはずだ。これ以上文句を言うようなら貴様の会社とは縁を切るしかないな』と言うんだ」
「え、でも、それってかわいそうですよ」
「ビジネスに酷いも何もない。あるのは食うか食われるかだ」

朝生さんが鬼のように見える。
外見は私のはずなのに、その眉の寄せ方、口のつり上げ方、どれをとっても朝生さんだった。
こうして、振りどころか、生活まで朝生さんに成りきらざるを得なくなった。




その夜、ついに衝動を押さえきれなくなってしまった。
手にはこっそりと元の私の部屋に侵入して持ってきたかわいい花柄のバスタオル。
下着は持ってこようとして思いとどまった。

目の前には廊下とお風呂場を隔てる扉がある。
この時間はいつも私が入っているので、誰も来ないことは確認済み。
背中に昼間にかいた汗とは違う汗が流れた。

いつ戻れるかもわからないのに、もう、お風呂を我慢するなんてできない!

横開きの扉を開け、そこに足を一歩踏み入れた。

「おい」

後ろから、今一番聞きたくない人の声に体が強張った。

「あ、朝生さん、こんなところにどうして……」
「それはこちらの台詞だ。何だ、そのバスタオルは?」
「え、ええっと……」

あれこれと考えてみたけれど、誤魔化しは利きそうにない。

「……我慢できなくて」
「それで、風呂に入ろうと?」
「はい……」

被告人を追求する検事のような眼差しと口調。
悪いことをしていないはずなのに、罪悪感が湧いてきた。

……って、どうして朝生さんはこんなところにいるの?

「もしかして、朝生さんもお風呂に入ろうとしてたんですか?」
「何のことだ」

朝生さんの目が泳いだような気がした。

「まさか、私の裸を鏡の前に晒してあんなことを、ましてやお風呂の中に入って人には言えないこんなことまで……」

朝生さんならやりそう。

「だ、ダメですよ! 絶対にダメです!!」
「……妄想は大概にしろ」

朝生さんは呆れ果てている。

「違うんですか?」
「当たり前だ。まあ、入浴したいと思ったことには違いないが」
「やっぱり」
「いい加減、そこから離れろ。お前の貧相な体になど興味はない」
「貧相な体って! それに、人の心を勝手に読まないでください!」
「お前の思考など透けて見える。自分がそのような表情ができるかと思うと絶望するな」

言い終えて、朝生さんは脱衣場に入っていった。

「あの、何をしようと……」
「風呂ですることなどそれほど多くないと思うが」

“私”がブラウスのボタンに手をかける。
衣擦れの音と共に首元のボタンが外され、そこから鎖骨が露わになった。

「それ以上はダメです!」

二つめのボタンにかかろうとする手を止めた。

「これ以上この状態で過ごすと、仕事上でも支障が出る。安心しろ。お前の体に欲情することなどありえない」
「そういう問題じゃありません!」

それはそれで女としてはショックだけど。

「では、いつ戻れるかのあてもなく、ずっと入らないのか?」
「それは……」

言い淀んだ。

「お前にも後で入ってもらわねばな。取引先に悪い噂が流れてしまっては、桜コンツェルンは形無しだ」

朝生さんの言いたいことは理解できる。
それに、私もお風呂に入ってさっぱりしたい。
でも、恥じらいというか照れというか……。

考えている間に、朝生さんは次のボタンを外そうとしている。

ああっ、どうすれば……。
今止めても、いつか絶対に入ることになるし。
入っても裸を見られない方法……。

「そうだ。私も一緒に入りますよ」
「……何?」

朝生さんが眉根を寄せた。

「でも、ちょっとだけお願いがあります」
「頼みだと?」

私は近くにあったハンドタオルを掴み、それで“私”を目隠しした。

「お、おい、何をする!?」
「私が朝生さんを着替えさせてあげます。ついでに体も洗って拭いてあげますから、パジャマに着替えるまではずっとしててくださいね。元に戻れるまで、毎日しますから」

そうすれば、ずっと裸は見られない。

「何を勝手なことを……!」

目隠しを外そうとする朝生さん。
その両手を片手で掴んだ。

「大人しくしててください」
「ちっ……」

力では敵わないことを知った朝生さんは、抵抗をやめた。
ゆっくりと上から“私”のブラウスのボタンを外していく。

自分で自分を脱がせるのって変な感じ。
私の胸の形って、こんなだったんだ。
あ、こんなところにホクロがある。

じっくり見たことなどなかったので、妙なことに感心してしまった。

「おい、早くしろ。……っ、変なところを触るな!」

脇腹に手が触れると、朝生さんが身をよじった。

「もうちょっとだけ待っててください。女の子の着替えは大変なんですよ」
「…………」

次にスカート、下着といった順番に手をかけていき、一糸まとわぬ姿にした。

な、何だか……。

見慣れていたけど、どうしてだか自分の体じゃないようで羞恥心を覚えた。
すぐに、その体にぐるぐるとバスタオルを巻く。

あとは、私だけ。

緊張でごくりと喉が鳴った。

「お前、妙なことを考えていないだろうな」
「え、考えてませんよ?」

その声は自分でもわかるくらい震えていた。

でも、ずっとこうしてても仕方ない!
なるようになれ!

意を決して、スラックスのベルトに手をかけた。
目を閉じて、一気に引き降ろす。

脱いだ。脱いじゃった。

手探りでタオルを探して、腰に巻きつける。

よし、これで見えない……!

「じゃあ朝生さん、入りますよ」

“私”の手を引いて、お風呂場に入ろうとする。

「……おい。タオルを巻いたなら、目隠しをする必要はないだろう」
「あります、大ありです! だって、体とか、洗わないといけないし」

それに、バスタオルを巻いているとはいえ、裸を見られたくなんてない。

「ちっ、面倒な」
「面倒でもなんでも、してもらいます。今は私のほうが力、強いんですからね。抵抗してもムダですから」

ちょっとした優越感を覚えながら、小さな手を引いてお風呂場に入った。




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