<沙紀サイド>

「近寄るな! 鬱陶しい!!」
「!!」

虎桜組の広く長い階段の下。
倒れた"私"を助け起こそうとした龍さんの動きが止まった。
その姿は蛇に睨まれた蛙のようだ。

「う、鬱陶しいって……、そんな……そんな……俺は助けようとしただけなのに……」

龍さんは驚愕して後ずさった。
"私"はすごく不愉快そうな顔をしている。

「涙など流して、気持ち悪いこと極まりないな」
「!!」

龍さんはついには座り込み、両膝を抱えてしまった。

「気持ち悪い……そっか……俺って、そんな風に思われてたんですね……」

その姿はどことなく哀愁が漂っていた。
そして、それを呆然と見つめる私。

龍さんに暴言を吐いたのは私であって私ではなくて……。

その時は私自身ですら状況を飲み込めていなかった。





その日、虎桜組の朝は、轟音から始まった。

「いったぁ〜」

階段の角で誰かとぶつかり、そのまま階下まで真っ逆さま。
打ったところがずきずきと痛む。

「お嬢〜、大丈夫ですか〜」

物音を聞きつけたのか、向こうから龍さんが叫びながら走ってきた。

「あ、龍さん。大丈夫で……」
「お嬢〜!!」
「……す?」

龍さんは私が全てを言い終える前に横を通り過ぎていった。
駆け寄って、その手で誰かを抱き起こしている。

あれ……?

「しっかりしてください! 大丈夫ですか!?」

それは、紛れもなく……。

「私!?」

龍さんの手の中で小さな呻き声を上げているのは、紛れもなく"私"だった。

え、なになになに!?
どういうこと!?

頭が混乱する。
さらに、自分の出した声を思い出してはっとなった。

……野太い?

おまけに肌に感じる違和感。
体を確認すると、見覚えのあるスーツを着ていた。

こ、これって……。

恐る恐る自分の顔を触った。
違う肌触りに短く違う色の髪の毛。
その色はどう見ても……。

「朝生さんの……?」

やがて気絶していた私がゆっくりと瞳を開いた。
そして、目の前にある状況を確認し、

「近寄るな! 鬱陶しい!」
「!!」

その後も龍さんを罵倒し続けた"私"。
その勢いに、止めるどころか、動くことすらできなかった。

呆然と立ち尽くしていると目が合った。
先ほどの見覚えのある対応。
間違いであって欲しいと願いながら、その言葉を口にした。

「もしかして、朝生さん……?」
「お前……」

がっと手を掴まれた。

「来い!!」
「え、ちょ、ちょっと……」

そのままずるずると引きずられていった。

細かな装飾が施されたインテリアに壁一面にずらっと並んだ難しそうな無数の本。
その部屋の机の上には、書類が山のように積まれている。

「まるで現実離れしているが、どうやら階段から落ちたときに精神が入れ替わってしまったらしい」

疲れた様子の朝生さんが再確認するように言った。

「そん、な……。どうするんですか!? 大変ですよ!!」

朝生さんを両手で掴んで揺すると"私"の体ががくがく揺れた。

「ううっ、これからどうすれば……。着替え、お風呂、お手洗い……」

見て見られの間柄!?
包み隠さず!?

「もう、朝生さんの顔がまともに見られない!」
「何を言っている……」

朝生さんが呆れた顔をした。

それに、周りの人にもどうやって説明すればいいの!?

「学校だってあるのに。この姿で学校なんかに行ったら……」

想像して、さあっと血の気が引いた。

「ど、どどどどどうしましょう、朝生さん!!」
「少し冷静になれ!」
「むぐっ」

その小さな手で口を塞がれた。

「どうして朝生さんはそんなに落ち着いてるんですか!?」

ちょっとは焦ったりしないの!?

「焦ってどうにかなるものではないからな。これからのことを考えた方が効率的だ。それより、うるさくて敵わん」

ポケットから取り出したなにかを口に放り込まれた。
口に広がる甘さと解けていく感触。

「……チョコレート?」
「いつもこんなものをポケットに忍ばせているのか?」
「ち、違いますよ! たまたまです、たまたま!」

朝生さんは私を一瞥して口の端をつり上げた後、本棚から何冊か本を取り出した。
いつも座っている椅子に腰かけると、背表紙の分厚い本のページをめくる。
その時には、不思議と気分が落ち着いていた。

「それ、何の本ですか?」

傍に寄って、本を見た。
日本語ではない言葉で書かれていて読めない。

「えっと……、これ、何です?」
「中世の魔術などに関する書物だ。こうなってしまってはどんなものでも調べてみなくてはならないだろう」

そして、『たまたま譲り受けた本だが、役に立つときが来るとはな』と付け加えた。

たまたま譲り受けたものって……。

朝生さんの交友関係がわからない。

でも、それって私のため?

「勘違いするな。早く自分の体に戻りたいだけだ。一体、何を食えばこんな体になれるんだ」
「どういう意味ですか!?」

朝生さんはふっと笑みを零した。

「ずっと突っ立っていられると邪魔だ。出て行け」
「え、私も手伝いますよ」
「では、この文字が読めるのか?」
「う……。確かに読めないですけど……。でも、手伝えることくらい……」
「ないな」
「でも……」
「邪魔だ」

鋭い眼光で制された。

私も、何か手伝いたかったのに……。

とぼとぼと執務室を後にしようとすると、その背中に声がかけられた。

「組員たちには黙っておけ。混乱の原因になる」

そっか。
いきなり精神が入れ替わったなんて言ったらビックリするよね。

「わかりました」
「あと、わかっているとは思うが、お前には私になりきってもらう」
「それって、朝生さんの仕事をするってことですか?」
「お前に私の仕事が務まるのか?」

馬鹿にしたような笑いをされた。

「じゃあ、何をすれば……」
「私の立ち居振る舞い、話し方、全てだ。もちろん、部屋も私の部屋を使ってもらう」
「ええ〜〜〜!!」

枕が替わると寝られないのに。

朝生さんは私の文句など意に介さず続ける。

「まず、組員たちへの対応だ」

朝生さんが腕組みをしながら言った。

「仲良くすればいいんじゃないんですか?」
「駄目だ。そんなことをすれば、やつらが今まで以上につけあがるきっかけを与えることになる。まずは龍が来たときからの対応だ。『朝生、今度の休みにお嬢たちと遊びに行くんだけどな。お嬢がお前も一緒にどうかって言ってるんだ』」
「行ったらいいと思いますけど」
「ここは『断る』だ」
「ええっ!? どうしてですか?」

みんなで遊ぶのって楽しいのに。

「私は仕事で忙しい。それに、あいつらといると馬鹿が遷る。近づいてきたときは『近寄るな』。話しかけてきたら無視をしろ」

朝生さんって……。

「あの、私はみんなと仲良くした方がいいと思いますけど……」
「お前が仲良くしたいの間違いではないか?」
「う……」

確かにみんなとお喋りしたいけど。
少しは朝生さんのイメージアップになればいいと思って……。

「『はい』『わかりました』『それで構いません』は使うんじゃないぞ。話す相手はまず疑え。腹に何を抱えているかわからないからな。『駄目だ』『断る』『出直せ』。常にこの三つを心がけろ」
「じゃあ、もし、ナンパされたら?」
「は?」

何を言っているのかわからないといった表情。

「街を歩いてたらナンパされるかもしれないじゃないですか。その時の対応です」

朝生さんって見た目はいいんだし……。

「ナンパだと?」
「そうですよ。街を歩いててかわいい女の子とか美人なお姉さんに声をかけられたらどうしたらいいんですか?」
「心配する必要はない。外見が私でも中身がお前なら、言い寄ってくる女などいないだろう」
「むっ……。じゃあ、"私"もナンパされないように気をつけてくださいね!」
「当たり前だ。お前に声をかけるなど、私が許すはずがないだろう」

不意に"私"の口から出た朝生さんの独占欲。

てっきり、『お前など天地がひっくり返ってもナンパされない』とか言われると思ってたのに……。

「えっと……」

もしかして、それって……。

かあっと顔が熱くなっていくのがわかった。
私がずっと黙っているのを見て、ようやく朝生さんは自分の言った言葉の意味を理解したみたいだった。

「ふん。最も、お前を軟派したいなどと思う奇特なやつがいればだがな」

そう言って、少しだけ視線を逸らした。

「あの、朝生さん……」

さっきの言葉の真意を聞こうとして声をかけた。

「では、次に……」

答える気がないとばかりに言葉を遮られた。

……聞きたかったのに。
でも、聞いても絶対に教えてくれないだろうな。

その後も特訓が延々と続き、二時間が経過した。




「『お前たちに用はない。で、出て行け』あれ? この後、何て言うんだったっけ……」

覇気のない声で言った。
その様は、いつもの朝生さんには遠く及ばない。
もう、いろいろしすぎて自分が何をしているのかすら忘れてしまいそうだった。
朝生さんには、一度だけ私の真似をさせてみたけど、それが朝生さんだと思うだけで複雑な気分になってしまった。
それが朝生さんにも伝わってしまったのか、それ以降は演技をしてくれない。

「やっぱり、私には無理です……」

頑張ってはみたけれど、18年間で培われた性格は変わりそうにない。
気をつけてみてもどこかでボロが出てしまう。

「もういい。お前は黙って教えた定型文のみを話していろ」

ため息をつく仕草までが朝生さんだ。

「朝生さんって、外見が変わってもやっぱり朝生さんなんですね」
「何のことだ?」

上手く朝生さんにはなりきれないし、朝生さんも私になりきってはくれないけど。
朝生さんがいれば、なんとなくどうにかなるような気がする。





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