心地よく耳に届く波の音。
波に揺れる砂浜の貝殻。
どこまでも続くスカイブルーとマリンブルーの境界線。
からからと照りつける太陽が眩しい。

白い砂浜に座りながら、ぼーっと目の前に広がる煌びやかな景色を眺めていた。

「あ、カニだ。……食べられるかな。でも、小さいし、殻ばっかりで身はほとんどなさそう……」

そんな環境とは裏腹に、私の心は深く沈んでいた。

漂流三日目。
今日の私の収穫、よくわからないキノコ三本。

……これ、食べられるのかな?

キノコを太陽にかざしたり、匂いを嗅いでみたりしていると、ジャングルの方から砂を踏む足音が聞こえてきた。

「待たせたな」

立っていたのは、こんがりと肌が焼けた灰谷先生だった。
前から逞しかった体格が、さらにがっしりしたように思える。
蔦で作った籠の中には大量のキノコや山菜が入っていた。

……文句は言えないけど、また、野菜か……。

口からため息が漏れた。

「どうした? 元気ないな」
「……先生は生き生きしてますね」

普段、白衣を着てお医者さんをしているときより数段そう見える。

先生なら、どんな環境でも生きていけそう。

「それより、お前、それは毒キノコだぞ」

私が手に持っているキノコを見て言った。

「そうなんですか?」
「ああ。食べれば三日三晩、下痢と嘔吐が続く」
「え!?」

慌ててそれを海に投げ捨てた。

「先生って、ほんとに物知りですよね」
「これくらい常識だ」

……常識なんだ。

先生の底が計り知れない。

家にお邪魔させてもらったときだって、明らかに医学関係じゃない本とかもいっぱいあったし……。
趣味が幅広いのかな?

「じゃあ、俺は夕飯のために薪を集めてくる」

籠を置いて、再び先生がジャングルに入ろうと背を向けた。

「あ、私も行きますよ」
「お前は水でも飲んで木陰で休んでいろ。顔に疲れが滲み出ている」

先生はそれだけ言って去っていった。

こういうときでも優しいな。

言われたとおり、木陰に入って腰を下ろした。

水、飲んでいいって言われたけど、勿体ないし……。

水は先生が海水を加熱して気化させた蒸留水。
昔、理科の実験か何かでやった記憶がある。

先生に教えられてやっと思い出した程度だけど……。

こういうとき、もっと真面目に学校の勉強を受けておけばよかったと後悔する。
虎桜組にいたときは気にも留めなかった水が、こんなにも貴重なものだったということを実感した。





こんなジャングルしかなくて誰も住んでいない、海に囲まれた島に漂着したのは三日前のこと。
始まりは龍さんが私の夏休みを利用して企画してくれた豪華客船での太平洋横断海外旅行だった。
私が船酔いや病気になったら大変だと心配した龍さんたちが、灰谷先生を無理矢理連れてきて旅行に出発。
旅行開始から数日が経過して、いつものように甲板から海を見ていた私は、風で飛ばされた自分の帽子を追いかけた。
帽子を掴んだまではよかったんだけど、その他に注意がいってなくて、助けようとしてくれた先生と一緒に海へ真っ逆さま。
そして、現在に至る。

龍さんたち、きっと今ごろ大慌てだろうな。
……捜してくれてるとは思うけど。

昼間より色彩が濃くなった海を見た。
輝くのは星ばかりで、船の光なんてひとつもない。

「小泉、食わないのか?」

ぼーっと海を眺めていると、先生が声をかけてきた。
その顔がたき火で赤く照らされている。

「いつまで、ここにいることになるのかなって……」
「さあな。だが、きっと龍たちが見つけてくれるだろう」
「そう、ですよね……」

歯切れの悪い返事しかできなかった。
同時に、お腹から情けない音が鳴った。

う……。

先生にじっと見られた。

は、恥ずかしい。

「すまない。成長期のお前には足りなかったか」

焼いたキノコを差し出された。

「ち、違うんです! その……最近、ずっと野菜ばっかりだったから……」

いくら食べてもお腹が満たされない。
たまに捕れる魚も小さいものばかりで身より骨の方が多い。

「そうだな」

先生は考えるように首を捻っていた。





「……んっ」

何か物音がしたような気がして目が覚めた。
椰子の葉の隙間から月が見える。

「……あれ、先生?」

見渡してみると、寝ているはずの先生がいなかった。

……どこかの出かけたのかな?
こんなに遅くに?

潮の香りが鼻をかすめる。
漆黒の海から吹いてくる風に身が震えた。
たき火の火は消えていて、辺りには明かりらしい明かりがひとつもない。

「先生、どこいったんだろ……」

急に不安になってきた。

……捜してみよう。

薄気味悪い雰囲気を醸し出しているジャングルを見た。

……怖い。
怖いけど……。

ありったけの勇気を振り絞って、ジャングルに足を一歩踏みしめた。

「せんせーい?」

大きな声がこだまする。
あれからどれくらい時間が経っただろうか。
数分、もしかしたら一分にも満たないのかもしれない。
どの道を行ったらいいのかも、どの道を来たのかもわからない。
足もだんだんと重くなってきた。

やっぱり、大人しく待っておけばよかったかな……。
漂流して、さらに遭難するだなんて。

「せんせ―――――」

再び大きな声を張り上げようとしたときだった。

「小泉……」
「……え?」

生い茂った草木の間から現れたのは先生だった。
ものすごく驚いた表情をしている。

「お前、どうしてここに……」
「それは私の台詞です。先生こそ、こんな時間にどこに行ってたんですか!?」

声が震えているのが、自分でもわかった。

「すまない。気を遣ったつもりが、逆に心配させてしまったようだな。砂浜まで送ろう」
「えっ、先生はどうするんですか?」
「俺はまだ用事がある」
「じゃあ、私も一緒に連れて行ってください」
「いや、そういうわけには……」
「一人でじっと待っているなんて、不安で仕方ありません」

先生の顔を見て、訴えかけるように言った。
先生はしばらく考えた後、小さく息を吐いた。

「わかった。ただし、俺から離れるなよ」
「はい!」





長く伸びた草を左右にかき分けて、道なき道を進む。
どこからか虫の鳴く音色が聞こえてきた。
今は私に袖を掴まれたまま進む先生だけが頼りだった。

「わっ!?」

やがて、先生が足を止めた。
急だったので、先生の広い背中に額がぶつかった。

「すみません」
「いや、お前こそ大丈夫だったか?」
「はい。でも、急に立ち止まってどうしたんですか?」
「ああ。これを見てみろ」

先生が指差す先には、左右に草が倒されてできた道があった。

「これって?」
「獣道というやつだな。獣がよく通る道は、ああいう風に自然に道ができるんだ」
「へぇ……」

先生ってほんとに物知りだな。

私が感心している間に、先生はそこら辺に転がっている枝や蔓などを拾い集めていた。

「何かするんですか?」
「罠を仕掛ける」

……罠?
って、動物を捕まえるのかな。

器用にテキパキと何かを組み立てていく先生。

「私も手伝います」
「……いや、大丈夫だ」

今、一瞬、間がなかった!?

先生をじろっと見た。

「もしかして、私が不器用だからそんなの手伝えないとか思ってます?」
「……いや、そんなことはないが。じゃあ、これくらいの枝を持ってきてくれないか?」

と、先生が右手の指を広げて大きさを示した。

「わかりました」

笑顔で答えて、なるべく先生から離れないように周辺を探した。

枝、枝、枝っと……。

でも、なかなか見つからない。
ごそごそと生い茂った草の中にも手を突っ込んだ。

「おい!」
「え……?」

先生に声をかけられたときには遅かった。
手の先には、口を開けて威嚇している黒い蛇。
もたげた鎌首がしなった。

……噛まれるっ!

「……っ!?」

逃げもできず、覚悟をして目を閉じた。
でも、一向に痛みはやってこない。
恐る恐る目を開くと、

「先生!?」

目の前に先生が立っていた。
その手には木の棒が握られている。
いつの間にか、蛇はいなくなっていた。

「先生が追い払ってくれたんですか?」
「勝手に逃げていっただけだ。それより、大丈夫か?」
「はい。ありがとうございます」
「もう、変なところに手を突っ込むんじゃないぞ」
「わかりました」
「じゃあ、作業を続けるぞ」

後は何事もなく進み、その日は仕掛けを作って設置し、浜辺へと帰った。




翌日、地平線から昇ってくる太陽に起こされた。
もう嗅ぎ慣れてしまった潮の香り。
先生が木材と蔓、葉っぱで作ってくれたベッド。
ベッドから下りると、砂がじゃりっと鳴った。

「おはよう」
「あ、先生、おはようございます」

先生は火を熾して朝食の準備を始めていた。
蒸した芋のいい香りが漂ってくる。

「すみません。また、先生にご飯の準備させちゃって……。もっと早く起きられればよかったんですけど……」
「気にするな。あまりにもお前が気持ちよさそうに寝ていたから、俺が起こさなかっただけだ」
「えっ、もしかして……」

寝顔見られてた?

いろいろな種類の恥ずかしさが込み上げてくる。

「どうした?」
「い、いいえ! 早く朝食にしましょう!」

誤魔化すように立ち上がって、手伝おうと先生の元に歩んだ。

「いや、その前にすることがある」
「え?」

することって?

先生が来るように促す。
訳もわからず、ジャングルの中へと進んでいくその後に続いた。

そこは、昨日仕掛けを設置した場所だった。
甲高い悲鳴がそこら中に響き渡っている。
私の視線の先には、見事に罠に引っかかった豚のような生き物がいた。

「先生……」
「……肉だな」
「……ですね」

ごくりと生唾を飲み込んだ。
生き物を見て、お肉だと思うなんて、無人島生活以前はなかった。
性格が少しワイルドになったのかもしれない。

「でも、どうやって連れて帰りますか?」

砂浜からここまでかなりの距離がある。
しかし、隣に佇む先生からは返事がなかった。

「……先生?」

その顔を見上げた。
先生の視線は豚のような生き物に注がれている。
豚も先生を潤んだ瞳で見つめていた。

「あの、先生?」
「……かわいいな」
「はい?」

先生がゆっくりと豚のような生き物に近づいていく。
そして、足に絡んだ蔓を丁寧に解いた。

「よし、もう大丈夫だ」

ええっ!? もう大丈夫って……。

「ちょ、ちょっと、先生……!」
「もう、罠に引っかかるんじゃないぞ」

豚のような生き物は感謝の言葉を述べたのか、ひと泣きしてジャングルの奥に消えていった。

「チャーミーは今頃、元気にしているだろうか」

先生が遠い目をしている。

先生、相変わらずかわいいものには目がないなぁ。

呆れるより先にほっとしてしまった。

「お前にはすまないことをしたが……」
「いいですよ。それより早く朝食にしませんか? 私、もうお腹がペコペコです」
「そうだな」

先生が優しい笑みを浮かべた。
その笑顔を見るたびに、案外この生活も悪くないかもなんて思ってしまう。
起きたときに最初に見て、寝るときに最後に見る先生の顔。
思い出して、胸がドキリと高鳴った。

「どうした? いいことでもあったのか?」

そう言って、顔が緩んでいるのを指摘された。

「何でもないです。早く帰りましょう」

二人揃って来た道を戻るために歩き出す。
その時、ぐらっと先生の体が傾いた。
そのまま片膝を地面につく。

「先生!?」

何が起こったのかわからず、慌てて駆け寄った。
先生の息が荒い。

「すまない。少し日に当てられただけだ」

どう見ても、そんな状態じゃない。

汗もいっぱい流れてるし……。

その額に手を当てた。

「先生、すごく熱いですよ! 一体……」
「大丈夫だ」

額に当てた手を優しく退けようとした先生の手には二つの傷跡があった。

「まさか、昨日の蛇に……」
「毒は抜いたんだが、それ以上の治療はここではできないからな」

そんな……。
私をかばって、先生がこんなことに……。
それなのに、暢気にこの生活も悪くないなんて思って……。


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